「現実」主義の陥穽2013/09/24 12:50:56

・・・講和論議の際も今度の再軍備問題の時も平和問題談話会のような考え方に対していちばん頻繁に向けられる非難は、「現実的でない」という言葉です。私はどうしてもこの際、私達日本人が通常に現実とか非現実とかいう場合の「現実」というのはどういう構造をもっているかということをよくつきとめて置く必要があると思うのです。私の考えではそこにはほぼ三つの特徴が指摘できるのではないかと思います。
 第一には、現実の所与性ということです。
   現実とは、本来一面において与えられたものであると同時に、他面で日々造られて行くものなのですが、・・・この国では端的に既成事実と等値されます。現実的たれということは、既成事実に屈服せよということにほかなりません。現実が所与性と過去性においてだけ捉えられるとき、それは容易に諦観に転化します。「現実だから仕方がない」というふうに、現実はいつも「仕方のない」過去なのです。私はかってこうした思考様式がいかに広く戦前戦時の指導者層に喰入り、それがいよいよ日本の「現実」をのっぴきならない泥沼に追い込んだかを分析したことがありますが、他方においてファシズムに対する抵抗力を内側から崩していったのもまさにこうした現実感ではなかったでしょうか?・・・
 第二の特徴は現実の一次元性とでもいいましょうか。いうまでもなく社会的現実はきわめて錯雑し矛盾したさまざまの動向によって立体的に構成されていますが、そうした現実の多元的構造はいわゆる「現実を直視せよ」とか「現実的地盤に立て」とかいって叱咤する場合には簡単に無視されて現実の一つの側面だけが強調されるのです。・・・「現実的たれ」というのはこうした矛盾錯雑した現実のどれを指していうのでしょうか。実はそういうとき、人はすでに現実のうちのある面を望ましいと考え、他の面を望ましくないと考える価値判断に立って「現実」の一面を選択しているのです。講和問題にしろ、再軍備問題にしろ、それは決して現実論と非現実論の争ではなく、実はそうした選択をめぐる争いに他なりません。・・・
 そう考えてくると自ずから我が国民の「現実」観を形成する第三の契機に行き当たらざるをえません。すなわち、その時々の支配権力が選択する方向がすぐれて「現実的」と考えられこれに対する反対派の選択する方向は容易に「観念的」「非現実的」というレッテルを貼られがちだということです。・・・だからといって私達はそれを「現実」のすべてと勘違いすると何時の日か手ひどく現実自体によって復讐されるでしょう。民衆の間の動向は権力者の側ほど組織化されていず、また必ずしもマス・コミュニケーションの軌道にのりませんから、いつでも表面的にはそれほど派手に見えませんが、少し長い目でみれば、むしろ現実を動かしている最終の力がそこにあることは歴史の常識です。
 私達の言論界に横行している「現実」観も、一寸吟味して見ればこのようにきわめて特殊の意味と色彩をもったものであることが分かります。こうした現実観の構造が無批判的に維持されている限り、それは過去においてと同じく将来においても私達国民の自発的な思考と行動の前に立ちふさがり、それを押しつぶす契機としてしか作用しないでしょう。そうしてあのアンデルセンの童話の少女のように「現実」という赤い靴をはかされた国民は自分で自分を制御出来ないままに死への舞踏を続けるほかなくなります。私達は観念論という非難にたじろがず、なによりもこうした特殊の「現実」観に真向から挑戦しようではありませんか。そうして既成事実へのこれ以上の屈服を拒絶しようではありませんか。そうした「拒絶」がたとえ一つ一つはどんなにささやかでも、それだけ私達の選択する現実をヨリ推進し、ヨリ有力にするのです。これを信じない者は人間の歴史を信じない者です。

   (丸山眞男集 第五巻 1952年 「現実」主義の陥穽 より)

テクノロジカル・ニヒリズム2011/08/16 08:21:21

丸山眞男集第五巻 ファシズムの現代的状況 (1953年)より~

 ・・・・・ ところで、ファシズムの強制的な同質化とセメント化のプロセスによって、個性も理性的批判力もなく、外部からの刺激に受動的に反応するだけの、砂のように画一的なマスが造り出されるということを先ほど申しましたが、実はこうした意味における国民のマス化は、現代の高度資本主義の諸条件の下で不可避的に進行している傾向なのであって、ファシズムはただその傾向を急激に、また極端にまで押しつめたものにすぎないということを忘れてはなりません。
 ・・・・・ 一体資本主義体制は自由企業などという名で呼ばれますが、およそ資本制企業の内部構造ほど本来権威主義的なものはありません。

 ・・・・・ 近代生活の専門的分化と機械化は人間をますます精神的に片輪にし、それだけ政治社会問題における無関心ないし無批判性が増大します。・・・例示しますと、技術的専門化に特有なニヒリズムが挙げられます。凡そ特殊分野のエクスパートに通有の心理として、自分の技術なり仕事なりを使ってくれさえすれば、それを使う政治的社会的な主体が何かというようなことについては、全く無関心で、いわば仕事のために仕事をする。毎日仕事に忙殺されるということそれ自体に生きる張りを感じる。・・・これが結果的にはいかなる悪しき社会的役割にも技術を役立て、いかなる反動的権力にも奉仕することになり易い。これをテクノロジカル・ニヒリズムとでも呼ぶことができるでしょう。これとちょうど相表裏して、現代政治の技術的複雑化からして、政治のことは政治の専門家(エキスパート)でないとわからないから、そういう人に万事お任せするというパッシブな考え方が国民の間に発生し易い。エキスパートに対する度を超えての無批判的信頼が近代人の特色の一つだとエーリヒ・フロムも指摘していますが、これが政治の分野にまでおよんで、政治的無関心を増大させ、デモクラシーを内部から崩壊させて行くのであります。・・・アリストテレスが「政治学」の中で、「家の住み心地がいいかどうかを最後的に決めるのは建築技師ではなくその家に住む人だ」ということを言っていますが、まさにこれが民主主義の根本の建前です。
 ・・・・・ さらに現代生活において国民大衆の政治的自発性の減退と思考の画一化をもたらす大きな動力があります。それはいうまでもなくマス・コミュニケーションの発達によるわれわれの知性の断片化・細分化であります。・・・今日のマス・コミュニケーションは必ずしも露わに画一的な結論を押しつけない、むしろ素材そのものを巧妙に取捨して、人々があたかも自主的に一つの意見を選択したかのように信じこませる。・・・現代のマス・コミュニケーションとそれに支えられた政治権力は、基本的には全くこれと同じ手段によって国民の政治的思考を類型化し画一化し、いわゆる「世論」を作りだして行くといえるでしょう。
 こういうようにファシズムの強制的同質化を準備する素地は近代社会なり近代文明なりの諸条件や傾向のなかに内在しているものであって、それだけに根が深いといわなければなりません。

政治の世界2011/04/15 21:21:49

・・・
しかしわれわれは政治を運命として諦観したり絶望したり、逃避したりしてはならないのです。
イギリスで出たあるパンフレットに ”YOU may not think about politics,but politics thinks
about YOU" という文句があるそうです。

あなたがどんなに政治が嫌いでも、どんなに政治に無関心でも、政治の方であなたを追いかけてきてしっかり摑んではなさない、という意味です。政治がこれほど私達の生命を自由に左右する力をもつからこそ、これに真正面から立ち向かい、政治の力を野放しにせずにこれを私達のコントロールの下に置くにはどうしたらいいかということを、文字通り私達の死活の問題として考えざるをえないのです。
・・・
(丸山眞男集 第五巻 1952年)

60年前と政治状況は異なるが、この言葉はいまだ真実であり、日本の課題である。
そろそろ政治に真正面から立ち向かい、政治の力を野放しにせず、政治を我々の死活の問題として考えなければ、高齢化・財政危機・東日本大震災等の難局を乗り切ることはできないだろう。

自由在不自由中2010/07/19 21:28:59

丸山眞男集第三巻「福沢諭吉の哲学」より

 ・・・福沢における「自由」の具体的規定である。

 政治的絶対主義が価値判断の絶対主義と相伴うとすれば、政治権力者による価値基準の独占的所有が破れ、価値決定の源泉が多元的となるところ、そこに必ずや自由は発生するはずである。  「単一の説を守れば、其説の性質は仮令ひ純情善良なるも、之に由て決して自由の気を生ず可らず。自由の気風は唯多事争論の間に在て存するものと知るべし」(概略、巻之一)

 是と逆に一つの原理が、之と競争する他の原理の抵抗を受けることなく、無制限に自己を普遍化しうる場合には、価値がそこに向かって集中し、人間精神がその絶対価値の方へ偏倚するから、必然的に「惑溺」現象が起り、社会的停滞と権力の偏重が支配する。

  ・・・・・

 自由と専制との抵抗闘争関係そのもののうちに自由があるのであって、自由の単一支配はもはや自由ではない。。ここに「自由は不自由の際に生ず」という福沢の第二の重要な命題が生ずる。  「抑も文明の自由は、他の自由を費して買う可きものに非ず。諸の権義を許し、諸の利益を得せしめ、諸の意見を容れ、諸の力を逞ふせしめ、彼我平均の間に存するのみ。或は自由は不自由の際に生ずと云ふも可なり」(概略、巻之五)